- 作者: 小浜逸郎
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2005/10/15
- メディア: 新書
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この本で取り上げているのは、結果責任(起こってしまったことに対する責任)なので、いわゆる「責任感が強い人」という意味での責任とは異なると思う。「責任感が強い人」における責任とは将来に対するものだと考えられる。
自由意思が存在するから、責任が存在するという構図をひっくり返して、責任を追及したいがために自由意思というものを想定したのではないかとの指摘が面白い。脳科学の本を読んでいても自由意思というものの根拠が揺らいでいることがよく分かるが、それに伴い責任の根拠も揺らいでしまう。
責任を追求するためには、どこかで線引きしなくてはならない。すべての行為は様々なことに結びついているので、強引に線引きしないと収拾がつかなくなる。たとえば飲酒運転で人を殺してしまった場合の責任はどうか。酒を飲んで運転した人は確かに責任があるように見えるが、酒を提供した飲食店はどうか、一緒に乗車していた人はどうか、法律改正に伴い、飲食店や同乗者の責任も問われるようになったが、これは社会の変化により、責任の範囲が狭くなったり、広くなったりする例でもある。さらにこれが拡大していくと、酒を飲むような人に自動車を販売した自動車ディーラーの責任や飲酒運転をさせるように教育した親の責任といったように際限なく拡大していく。どの程度で責任があるかどうかを定義するのは強引にならざるを得ず、白と黒のグラデーションを眺めてここまでを黒と言いきるようなものだ。事前に決めておくことは難しい。見る人や社会によっても変化する。
人の行動は必ずしも自由意思によるものではないとの指摘も納得だ。ただぼんやりとしていることも多い。そのような時に重大なことが発生した場合でも、自由意思の存在により責任が追及されてしまう。
まずある事態が起こったことが感知され、それによって当事者は混乱し、自己喪失感情や共同性の崩壊の感情に見舞われる。この感情は収拾されなければならないので、その結果として、私たちの意識のなかに、過去にさかのぼってその事態の原因者を特定したいという欲求が湧き起こる。この志向性こそが、責任概念の成立を要請するのです。そして、その成立のためには、どの人間も自由で理性的な選択意志を持っているという仮定が必要になってきます。
この一文が最高の要約になっているように思える。少し言葉が難しいが。