時間革命

時間革命

時間革命


読了。読みやすい。ただ題名である「時間革命」は必ずしも正確ではない。時間革命 - この本では個人が正確な時計を保有することで社会全体が時間に正確に運営されるようになったことを指す - についてあまり多くが書かれているわけではない。最後のほうは、欧州中心の歴史観に対する反論が中心になっている。著者である角山栄氏のさまざまな論文を一冊の本にまとめたような印象。一貫したテーマは感じられない。「喪失と獲得」(ASIN:4314009683)にスタイルとしては近いかも。

とりあえずメモ。

この本を読んで面白かったのは、地方ごとにローカル・タイムというべき異なった時間が存在したということだ。イギリスでは都市毎に異なる時間帯が存在した。そのためロンドンとの時差も数分以上離れていた都市も多く存在する。このあたりは先日読んだ「オフサイドはなぜ反則か」(ASIN:4582764150)にも書いてあった。このようなローカル・タイムは鉄道の普及によって消滅することになる。鉄道のダイアに支障をきたすことに加えて、鉄道によって人々の移動が激しくなると異なる時間帯が存在することに不便さを感じるようになったためだ。このような状況は日本でも存在したが、明治時代にローカル・タイムは消滅することになる。

時計が生み出す時間は、自然に見られる時間とは別個の、人工的な時間であるとの指摘がある。夏や冬に関係なく1時間は同じだ。機械的な時計が存在しない時代は、太陽の動きなどで時間を判断せざるを得ず、自然の時間を取り入れるしかなかった。

利子に関する説明が面白い。利子は時間という要素を抜きにして考えることはできない。キリスト教でなぜ利子が禁止されていたか、その理由は単に、不労所得はいけないという単純なものではなかった。「創世記」では神は光と闇、水と天、などさまざまなものを6日間で作り上げた。そのとき同時に時間もつくった。だから本来、時間は神のものであるという。利子はこの神の所有物である時間を金貸しが盗むことによって得たものである、だからいけないというのだ。しかし金貸し(商人)は神が支配する時間では生きていなかったのだと著者は指摘する。都市共同体を支配していた商人は、都市内部の時間も管理していた。この象徴が都市の市庁舎に設置された時計台であった。
中世都市にある時計台は、コストも高く個人で所有することが難しかった。そのため時計台は共同体で保有・運営されていたが、懐中時計や腕時計の登場により個人でも時計を持つことが容易になる。クオーツ時計の発明はきわめて正確な時計を低価格で一般大衆に提供することを容易にした。正確な時計が個人にいきわたるようになると、当然生活スタイルも変わってくる。

時間(というか時計?)の歴史を見ると、まず自然の時間(日時計)が存在し、その後は機械式の時計(都市の時計台、都市ごとのローカル・タイム)が登場、その後は駅の時計台(国ごとの時間)、最後に懐中時計・腕時計による時計のパーソナル化になる。

イギリスで鉄道がはじめて運行を開始した日に、初めての鉄道事故が発生した。亡くなったのは鉄道を推進していた政治家だったというのが非常に皮肉である。鉄道の普及が、車内における読書という習慣を広めることになったという指摘が驚きだ。退屈な時間をどのようにつぶすか、そのひとつの回答が読書だったらしい。現在に存在すれば便利だと思われるようなサービスも提供されていたようだ。乗る前に本を借りて、降りた駅で返すというサービスだ。新幹線でこのようなサービスがあればかなり便利だろう。


日本における時計の歴史も紹介している。寺院の鐘が時計としての役割を果たしていたようだ。従っていた時間帯はローカルタイムであり、都の標準時ではなかった。遠くまで聞こえないと鐘の意味はなく、そのような鐘を造るのは高度な技術が必要だったらしい。たとえばビッグベンの鐘は一度焼失して復興しているのだが、復興後の鐘は鳴らないという欠陥品だったという。
日本では、明治になるまでは不定時法の時刻(季節ごとに1時間が異なる)を採用していたが、このやり方で機械式の時計まで生み出している。日本にしかないユニークなものだったので「和時計」と呼ぶ。機械式が生み出す時間に従うのではなく、日本人従来が従ってきた時間を生み出すように機械を作るという、西洋とは逆の発想が面白い。しかし残念なことに、和時計は一般庶民に広がることはなかったので、英国のように時計工業の発達から産業革命に進んだような経路をたどることはなかった。

ブログ論で、日本人は日記を書くのが好きということがよく指摘されるが、この本でも日本人の日記に対するユニークな取り組みが紹介されている。イギリス人の日記と比較すると日本人の日記は一日に起こった出来事を丹念に時間を追って記録していることにあるという。
あと、日本人の旅行好きという指摘もある。シーボルトの目から見た日本は、非常に多くの人が旅行に出ている国と映ったようだ。しかもガイドブックや携帯用日時計まで用意されていることに驚きを隠せない。

先にも書いたように、最後のほうはヨーロッパ帝国主義とアジアという話題になってしまい、本書の題名とは外れてしまう。進んだ欧州、専制性の元で停滞していたアジアという欧州中心の歴史観を批判しており、欧州がアジアにやってくるまでは、アジア域内で貿易が活発に行われていたと指摘している。土地占有を目的にした欧州各国の進出が、アジア域内の貿易を混乱させることになったと見ているようだ。ウォーラーステインという学者に対する言及が多い。初めて聞いた名前。