脳のなかの幽霊

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

借りたのは失敗だった。買うべきだった。書き込めないし。ただ貸出期間が決まっているので読書に集中しやすいという効果はあるかもしれない。
予想以上におもしろい本だ。著者のラマチャンドラン博士が幻肢(失った手足の感覚を脳が忘れないこと)の研究を通じて脳を働きを調べており、この研究結果を一般人向けに紹介したのがこの本。チャートも多く翻訳も読みやすい。
脳は不思議だなというのが今のところの感想。これからますます想像を絶するような脳の働きが明らかになってくるのではないかと非常に楽しみである。しかし脳が脳を調べるというのも妙な感じだ。脳の働きが完全に解明されたときには、哲学と脳科学は同じ学問になってしまうのだろうか。
最初に多重人格障害の話があり、人格が変わるときには瞳の色から血液の構造まで変わってしまうという事例が紹介されていた。とんでもないことのような気がするのだが本当?
幻肢という現象は非常に不思議だ。存在しないはずの手足の感覚が残り、患者を悩ませる。存在しない手足が激痛を感じる場合にはどうやって治療すればよいのか医者も困るだろう。しかしラマチャンドラン博士は視覚イメージを利用して単純な鏡でできた箱を使って患者を利用したという。存在しないはずの手足が存在するかのように鏡を使って視覚イメージを作り出し脳に錯覚を与えることで治療に成功したらしい。痛みは健常者でさえ、錯覚にすぎないのだという指摘は驚いた。痛みに限らず感覚はすべてそうかもしれない。
この本を読んでいると、「ユーザーイリュージョン―意識という幻想」(ASIN:4314009241)や「インポッシブル・シンキング」(ASIN:4822245039)にも関係してくるような気がした。

視覚に関しても複数の処理ルートが用意されているらしい。新しいものと古いものだ。新しいルートを通った情報のみが意識することができる。古いルートを通った情報は意識できない。しかし古いルートを通った情報を無意識にうちに利用できる。あたかも脳の中に意識しないまま行動するゾンビがいるようなものだ。新しいルートを何らかの原因(卒中など)で破壊されてしまったものの、古いルートは無傷のまま生き残った場合は、見たものを意識することはできなくても、体はちゃんと見えているかのように行動する。しかし意識はその行動を説明できない。

視覚の書き込みの話を読んでいると、仕事の関係で調査した「ターミナル・サービス」を思い出した。ターミナル・サービスはサーバーの画像データをクライアントに送信する際に、データ転送量が少なくなるように様々な処理を行っているという。たとえばほとんどの画面に登場する左下の「スタート」ボタンはあらかじめクライアント側で保存しておくことでいちいちサーバー側から転送する必要を省略しているらしい。人間の視覚でもおなじようなことが行われているようだ。少ない処理量で視覚イメージを完成させるために周りの情報や過去の経験などから情報を補って脳に送り込む。この部分は意識することはない。
「おそらく私たちはいつも幻覚を見ているのであり、私たちが知覚と呼んでいるものは、どの幻覚が現在の感覚入力にもっともよく適合するかを判断した結果なのである。しかし、シャルル・ボネ・シンドロームがそうであるように、もし脳に確認の視覚刺激が届かなければ、脳は独自の現実をつくりだす。」(P.156)

「インポッシブル・シンキング」を読んでから頭から離れないのが、「現実とは脳が解釈した結果にすぎない」ということ。現実に直接ふれあうことはできない。体を通じてしか現実にふれることはできず、皮膚や感覚器官を通じて得た外界の情報を、脳が処理して現実というイメージを作り出している。「インポッシブル・シンキング」ではこの解釈・処理のモデルを変えることの重要性を説いていたわけだ。まあ必ずしも変える必要はないかもしれないが、解釈の結果であると注意しておくことは必要なのかもしれない。