恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

7章・8章・9章を読んだ。
人間性が性淘汰(配偶者のえり好み)の結果、生まれてきたということは、ヒトにおいて排卵が隠されていることに関係があるのではないかという気がした。排卵が分からないためにり無理矢理交尾することで妊娠させる可能性は非常に低くなる。長期的な関係を築かないと妊娠させることは難しい。その結果、一目で分かるような性的装飾性質(クジャクにおける羽など)ではなく、しばらくつきあわないと判断が難しい、心という装飾を判断材料にするように進化したのではないかと思った。

芸術や道徳も性淘汰の結果、生まれたと指摘しているが、これは何も芸術や道徳の動機が性的であるということを意味しない。誤解を招きやすいと考えているのか、何度もこの旨が指摘されている。芸術や道徳は、人間の祖先が求愛行動を行っている時に好まれる性質だったということを意味しているに過ぎない。

雄のペニスは、雌による好みが進化させてきたという指摘にはびっくりである。さらには、2足歩行を行うきっかけは、ペニスを雌に誇示することにあったのではないかという説まで紹介している。またクリトリスもえり好みの装置であるとの説も唱えている。えり好みの装置であるということは、すべてのセックスにおいてオーガズムを感じさせていてはいけないことになる。それでは雄を選別することができなくなってしまうためだ。このあたりの議論は7章で行われているが、ほかにも乳房や顔などでもおもしろい指摘が多くなされている。

8章では芸術の誕生を性淘汰に結びつけて考えている。人類の祖先は、現在のような機械をもっていなかったこともあり、美を優れた技巧と結びつけて考えていたようだ。その技巧は、優れた適応度指標として活用されることになる。しかし現在ではテクノロジーの進歩により、この構図がもはや適用できなくなる。技工がなくてもきれいな作品は作れるようになったのだ。抽象的な現代芸術(素人目には子供の落書きにしか見えない)は、技工という観点では評価できない。技巧のすばらしさという観点で評価される大衆芸術に対して、鑑賞者の能力自体が適応度指標となるのが高等芸術になるらしい。つまりこんな訳分からない芸術を理解できる私はすごい審美感をもっているのだぞと自慢するのが高等芸術の楽しみ方ということになるだろうか。本能ではなく学習で楽しむ芸術ということか。
握斧(ハンドアックス)も芸術作品として作られたのではないかとの指摘もおもしろい。実用上ではかなり問題があったらしい。しかしこのようなハンドアックスを作ることができる人間は適応度の高さを周囲に見せつけることができるという利点があった。

9章では道徳と性淘汰の話題になる。利他的な行動は、血縁淘汰や互恵的利他行動で説明されることが多いが、非血縁者への利他的行動は説明できない。そこで性淘汰の出番となる。ヒトが狩猟採集生活を行っていた頃、雄はあまり食料獲得では役に立たなかったのではないかという。大きな獲物を捕まえに行くものの、成功率はかなり低かったと考えられる。反対に雌は植物や、より捕まえやすい小さな動物に焦点を絞っていたために安定して食料を集めることができた。雄は大きな獲物を捕まえても、自分で独占することは困難だった。周りに隠すことが難しいからだ。そのためリスクや労力を考慮すると、大きな獲物を狙うことは食料獲得という点から見ればあまり大したリターンを発生させていなかった。しかし雄が大きな獲物を捕まえようとすることを止めなかったのは、捕まえることで自らの適応度の高さをアピールすることができるという利点があったからではないかと指摘している。
あと、寄付やボランティア活動に対する考察も非常に興味深い。寄付を行う人たちは、寄付したお金が有効に活用されているのかどうかはあまり気にしないという。つまり寄付をした(それだけの負担をした)という事実のアピールのみが大事なのだという。